キャラかネタか

今日はいろいろ教えてもらった。その話は追々自分で消化してから日記にかいていきますよ

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GSのポールソン射撃されるという怪情報がとびかってますが、どうなんでしょうか
本当だったら、唯一勝ち組のGSもやばいということで。

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引用ですばい

玩具の賦〜昇平に/中原中也「白痴群」

俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり余技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だぞと云ふはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ

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上の歌は、中也主催の同人誌「白痴群」が廃刊の際に、大岡昇平が学芸会と雑誌を酷評した事に対する反論の歌。
この歌の通り、中也は定職にもつかず、ひたすら詩を書く。そして、さみしく死んでゆく。
彼の、金でも名誉でもない、ただひたすらに詩と向き合うひたむきな姿勢が、あの凄まじい詩群を生み出したと考えると、このなんとも幼稚に思える詩も微笑ましく思える。

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おいら、最近の漫才とか芸人、所謂お笑いブームの人達があんまり好きじゃない。昔ブームの走りの頃は面白かったんだが、最近どうにも鼻につく。
常々どうしてかなと、思っていたら、今日なんとなく分かった。

きっかけはオンエアバトルの特別番組。そこで、芸人は「ネタかキャラか、どっちが大事か」と議論をやっていた。
まぁ、結論はどっちともつかないんだが、そもそもこんな議論をする事に疑義を呈する。
日本の古典のお笑い、落語では、落語家はなるべく外見に個性を出さない事が大事とされた。なぜなら、外見に左右されて、観客の注意が話の中身よりも演者にいってしまうことを防ぐためだ。落語は1人で何役も演ずるから、外見が固定されると話が面白くなくなる、という理由もある。
かといって、ネタは古典落語ならばいつも同じ話だ。
つまり、ネタ使い回し、キャラを立てる事ももない。そのため、落語家は面白い情景を観客によりリアルに思い浮かべさせるために、話の技術を極限まで磨く。
落語家がそばを食べる真似をすると、本当にそばを食べたくなる。それは、そばを食べる情景が頭の中でありありと浮かぶためだ。実際にその情景を目の当たりにするよりも、想像した世界はより脳髄の奥に訴えかける。

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なんか、取り留めなく書いてしまったが、落語では観客の想像力にはたらきかけて笑いをとる。
かたや、最近のお笑いは見た目のインパクトだ。常に新しい刺激だ。そこに観客の想像力は皆無だ。
そこで、なんとなく最近のお笑いは、観客をバカにしている様な気がして嫌気を感じていたのかもしれない。

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想像力ならば鳥よりも高く飛べる。って言ったのは誰だっけか。